@お手紙拝見。

 お手紙拝見。お互いに青春二十一歳になったわけだね。でも苦労したせいか僕の方が兄のような気がしてならない。昨年の正月の艶々しい恋物語を知ってるだけに、冷たい、暗い、汚い寮で侘(わび)しく新年を迎えた君がいっそうのこといとしい。君は私と違って花やかな家庭に育ったんだからね。T君が君をロマンチックだって冷笑したって。かまうものか。彼の刹那主義こそ危いものだ。なぜというに、彼の思想には中心点が無いからだ。彼の「灰色生活」は虚偽である。みたまえ。彼の荒(すさ)んだ生活には、ああした生活に必然伴うべきはずの深刻沈痛の調子は毫も出ていないではないか。さて僕だ。例によって帰省したものの、ご存じのとおりの家庭ゆえあまりおもしろくない。でもさすがに正月だ。門松しめ飾り、松の内の八百屋町をぱったり人通りが杜絶(とだ)えて、牡丹雪(ぼたんゆき)が音も立てずに降っている。
 昨日丸山さんが手紙をよこした。つつましい筆使いだがちょっと人を惹きつける。私は三年前の夏の一夜を思いだす。水のような月の光が畳の上までさし込んで、庭の八手(やつで)の疎(まば)らな葉影は淡(あわ)く縁端にくずれた。蚯蚓(みみず)の声も幽(かす)かに聞こえていた。螢籠(ほたるかご)を檐(のき)に吊して丸山さんと私とは縁端に並んで坐った。この夜ほど二人がしんみりと語ったことはなかった。淑(しと)やかに団扇(うちわ)を使いながら、どうかすると心持ち髷(まげ)を傾けて寂しくほほ笑む。と螢が一匹隣りの庭から飛んで来た。丸山さんは庭に下りて団扇を揮うて螢を打った。浴衣(ゆかた)の袖がさっと翻る。八手の青葉がちらちら揺らぐ。螢は危く泉水の面に落ちようとしてやがて垣を掠(かす)めてついと飛んで行った。素足に庭下駄を穿(は)いて飛石の上に立った丈(たけ)の高い女の姿が妙にその夜の私の心に沁みた。寡婦にして子供無き丸山さんは三之助さん、三之助さんと言って私を弟のごとく愛してくれたのだが、今では岐阜で女学校の先生を勤めてるそうだ。
 私は休暇の初め、岡山で私の趣味に照らして最も美しいと思う花簪(はなかんざし)を妹に土産(みやげ)に買って帰ってやったら、あの質素な女学校ではこんな派手(はで)なものは插(さ)されませぬと言っていたがそれでも嬉しそうな顔はした。君も重子さんに本でも慰めに送ってやりたまえ。妹というものは可愛いもんだからね。明後日出発する。しっかり勉強したまえ。

by 『愛と認識との出発(倉田百三)』より抜粋

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@思えば今を距(さ)る二千六百年の昔、

 思えば今を距(さ)る二千六百年の昔、「わが」哲学がミレートスの揺籃を出(い)でてから、浮世の嵐は常にこの尊き学問につれなかった。しこうして今日もまたつれないのである。故国を追われて旅の空に眼鏡を磨きつつ思索に耽ったスピノーザの敬虔なる心の尊さ、フィロソフィック・クールネスの床(ゆか)しさ! 僕らはあくまでも尊き哲学者になろうではないか。私はH氏のものものしき惑溺(わくでき)呼(よば)わりに憎悪を抱き、K氏の耽美主義に反感を起こし、M博士の遊びの気分に溜息を洩(も)らす。M博士は私の離れじとばかり握った袂(たもと)を振り切って去っておしまいなすった。私はかの即興詩人時代の情趣濃(こまや)かなM博士がなつかしい。かのハルトマンの哲学を抱いて帰朝なすった頃の博士が慕わしい。思えば独歩の夭折(ようせつ)は私らにとって大きな損失であった。
 底冷たい秋の日影がぱっと障子に染めたかと思うとじきとまた暗くなる。鋭い、断(き)れ断(ぎ)れな百舌鳥(もず)の声が背戸口で喧(かしま)しい。しみじみと秋の気がする。ああ可憐なる君よ、(可憐という字を許せ)淋しき思索の路を二人肩を並べて勇ましく辿(たど)ろうではないか。行方(ゆくえ)も知れぬ遠い旅路に泣き出しそうになったらゼームス博士を思い出そう。哲学者は淋しい甲蟲である! お互いに真面目に考えようね。

by 『愛と認識との出発(倉田百三)』より抜粋

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@それから君はややもすれば単純なる心の持主、

 それから君はややもすれば単純なる心の持主、いわゆる善人をば軽蔑せんとする傾向があるがそれは悪いよ。考えてもみたまえ。もともとわれらは真正の善人――哲学的善人たらんがために哲学に志したのではないか。われらが冷たい思索の世界に、こうして凡俗の知らぬ苦労を嘗(な)めているのは「真」のためでなく、「美」のためでなく、じつに「善」のためである。「実在」に対する懐疑よりもはるかに疾(はや)く、はるかに切実に「善」に対する懐疑に陥ったのであった。迷い惑うるわれわれの前にいかに荘麗に、崇高に、厳然として哲学の門は聳(そび)えたりしよ。われらは血眼(ちまなこ)になって傍目も振らず、まっしぐらに突入したのだ。
 だからわが友よ、われらは彼ら善人を愛し、彼らの持てる純なる情と勇ましき力とをもって守るに価する真の善の宝玉を発見せねばならぬ。われら神聖なる哲学の徒は彼らの抱ける善の玉のいかに不純不透明にして雑駁(ざっぱく)なる混淆物(こんこうぶつ)を含みおるかを示して、雨に濡れたる艶消玉(つやけしだま)の月に輝く美しさを探ることを教えねばならない。濁水滔々(とうとう)たる黄河の流れを貪り汲まんとする彼らをして、ローマの街にありという清洌なる噴泉を掬(く)んで渇を潤すことを知らしめねばならない。

by 『愛と認識との出発(倉田百三)』より抜粋

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