@君、僕はこんなことを考えて沮喪する心を励ましているのだよ。

 君、僕はこんなことを考えて沮喪する心を励ましているのだよ。いつもの話だがどうもわが校には話せる奴(やつ)がいない。O市の天地において僕は孤独の地位に立ってる。から騒ぎ騒ぐ野次馬、安価なる信仰家、単純なる心の尊敬すべき凡骨、神経の鋭敏と官能のデリカシイとに鼻蠢(うごめ)かす歯の浮くような文芸家はいるが、人生に対する透徹なる批判と、纏綿(てんめん)たる執着と、真摯(しんし)なる態度とを持して真剣に人生の愛着者たらんと欲する人は無い。例の瘰癧(るいれき)のO君とはただ文学上において話せるのみだ。彼は根本的思索には心が向かっていない。彼は考えずしてただ味わおうとのみ努(つと)めている。彼の唯一の根底は生の刺激すなわち歓楽である。歓楽からただちに人生に入った彼の内的生活の過程を私は納得することができない。絹糸のごとき繊細なる感受性は持ちながら、知識は荒繩のごとく粗笨な一部の文芸家によって、哲学者の神聖なる努力と豊富なる功績とがいたずらに人生の傍観者なる悪名の裡(うち)に葬り去られんとするのは憤慨すべき事実である。われら哲学の学徒より見れば、いまだかつて哲学者ほど人生に対して親切、熱烈、誠実なる者を知らぬのである。彼はライフを熱愛するのあまり、これを抽象して常に眼前にぶら下げている。あたかも芸術家が自己の作品に対するごとき態度をもって哲学者は自己のライフに面している。かのロダンの大理石塊を前にしてまさに鑿(のみ)を揮(ふる)わんとして息を屏(と)め目を凝らすがごとくに、ベルグソンは与えられたる「人性」を最高の傑作たらしめんがためにじっとライフを見つめているのである。われらは彼の蒼白き頬と広き額と結べる唇とに纏綿たる執着と、深奥なる知性と、強烈なる意欲の影の漂えるのを看過してはならない。フィロソファーとは愛知者という語義だという。しかし私は愛生者をこそ哲学者と呼びたい。

by 『愛と認識との出発(倉田百三)』より抜粋

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@はかない人知で何を解こうとしてるのだ。

「はかない人知で何を解こうとしてるのだ。幾年かかれば解けるのだ。それを解決してからがおまえの意義ある生活ならばそれは危いものだ。初めから意義ある生活を打算してかからぬ方がましかもしれぬよ。疑惑の雲の中へ頭を突き込んでやがては雲の一部分に消え化してしまうのであろう」

 一度は恐れ戦(おのの)いてこの声にひれ伏した。が倨傲(きょごう)な心はぬっと頭を擡(もた)げる。
「いくら苦しくても、意義が不明でも、雲の中へ消え込んでも、その原因は私の意志どおりをやってきたからだ。世の中に思いどおりをやるほど好いことがあるものか。それに私はある女(真理)に恋慕してるのだ。なるほど対手(あいて)の顔はまだ見ない。しかし彼女はきっと美しい崇(とうと)い顔を持ってるに違いない。まだ見ぬ恋の楽しさを君は知るまい。私の恋が片思いに終わるとは断言できまい。今に彼女は必ず私に靡(なび)くよ。白い雲の上で私を呼んでいる彼女の優しい上品な声が聞こえるような気がする。考えてもみたまえ。互いに胸を打ち明けてからもおもしろかろうが、打ち明けぬうちも捨てがたいではないか。私はいかにしても思い切る気はない」

by 『愛と認識との出発(倉田百三)』より抜粋

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@憧憬

 憧憬
    ――三之助の手紙――

 哲学者は淋しい甲蟲(かぶとむし)である。
 故ゼームス博士はこうおっしゃった。心憎くもいじらしき言葉ではないか。思えば博士は昨年の夏、チョコルアの別荘で忽然として長逝せられたのであった。博士の歩みたまいし寂しき路を辿(たど)り行かんとするわが友よ、私はこの一句を口吟(くちずさ)むとき、髯(ひげ)の疎(まば)らな目の穏やかな博士の顔がまざまざと見え、たとえば明るい――といっても月の光で微(ほの)白い園で、色を秘した黒い花の幽(かす)かなる香を嗅(か)ぎながら、無量の哀調を聞くごとくそぞろに涙ぐまるるのである。しこうしてこうして哀愁に包まれたとき私が常になすがごとくに今日も君に書く気になったのだ。
 その後生活状態には何の異なりも無い。ただ心だけは常に浮動している。なんのことはない運動中枢を失った蛙のごとき有様だ。人生の愛着者(あいちゃくしゃ)にはなりたくてたまらぬのだが、それには欠くべからざる根本信念がこの幾年目を皿のごとくにして探し回ってるのにまだ捕捉できない。といって冷たい人生の傍観者になんでなれよう。この境に彷徨(ほうこう)する私の胸にはやるせのない不安と寂愁とが絶えず襲うてくる。前者は白幕に映ずる幻燈絵の消えやすきに感ずるおぼつかなさであり、後者は痲痺(まひ)せし掌の握れど握れど手応(てごた)え無きに覚ゆる淋しさである。ときどきこんな声が大なる権威を帯びて響きくることがある。

by 『愛と認識との出発(倉田百三)』より抜粋

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